せっかくハワイに行くのだから、定番のショッピングやグルメ、マリンスポーツだけではなく史跡や博物館なども楽しんでみたいですよね!
そのためには少し歴史を学んでおくことが必要なのですが、実はハワイの歴史は日本や米国、英国などさまざまな国との関わりによって成り立っており、意外と複雑…。時間がなくて自分でイチからは調べきれないという方もいらっしゃるのではないでしょうか。
そこで今回はハワイ諸島が形成されてから現在に至るまで、大事なポイントだけをおさえながらハワイの歴史を徹底解説していきます!
ハワイ諸島の形成
まずは島の成り立ちから見ていくことにいたしましょう。ハワイ諸島は、海底火山の噴火により北のカウアイ島から南のハワイ島まで順番に形成されました。
各島の形成の年代は下記のとおりです。
43万年前 | ハワイ島 |
132万年前 | マウイ島 |
128万年前 | ラナイ島 |
190万年前 | モロカイ島 |
370万年前 | オアフ島 |
510万年前 | カウアイ島 |
いずれも、噴火によって出現した溶岩が堆積を繰り返しながら次第に隆起し、海面に島として顔を出したそうです。ただ、ひとつの大きな島ができるのではなく複数の点在した島が形成されていることが気になりませんか?
その理由は地球のプレートの動きにあります。ハワイ島から南東沖48kmにあるホットスポット(マグマの吹き出し口)からあふれ出た溶岩が長い年月をかけて島となるのですが、プレートはそのあいだにも動いています。
誕生した島は、プレートにのって年に数cmずつ北西方向に移動していきます。しかしホットスポットはプレートの動きに影響されず、同じ位置にあるのです。だから島は少し場所を変えたところに新しく形成されていきます。
なお、ハワイ諸島は溶岩で成り立っていますが、カウアイ島やオアフ島のような古い島では植物が繁殖し、植物の堆積によって土壌が現れたといわれています。
また、溶岩が浸食された黒砂、珊瑚が堆積した石灰岩地帯など、さまざまな地形も形成されています。
ハワイの王朝成立以前の歴史
前章ではハワイ島が形成されるまでの歴史をご紹介しました。ここからはハワイ島が形成されたあと、王朝が成立する前にどのように人々が定住していったのかについてご説明していきます。
1500年前:ポリネシア系住民がハワイに定住
およそ1500年前、無人島だったハワイ島に最初にやってきたのは、マルケサス諸島のポリネシア系住民です。星明りだけを頼りにカヌーで3,200km以上を航海して島に辿り着きました。
そもそもポリネシア人は、アジアから移動してきた人達であり、人種はモンゴロイドです。現在の人類学者の間では、中国南東部や台湾あたりから南に移動して、フィリピンの島々やソロモン諸島を経て、太平洋の島々に辿り着いたと考えられています。
さらにおよそ500年後には、タヒチからも移住者が辿り着きました。古代ハワイにおける信仰の基礎となる神や半神半人の思想を持ち込み、カプ(タブー)による厳格な社会階層を導入したようです。
1778年:キャプテン・クックがカウアイ島に上陸
1778年には、海の探検家としてヨーロッパに名をはせたキャプテン・クックが、カウアイ島ワイメア湾に上陸しました。カウアイ島はハワイ諸島の中で4番目に大きい島です。
キャプテン・クックは、島々の名前をサンドイッチ諸島(ハワイ諸島の旧称)と名付けて、西洋との扉を開きました。名称の由来は、後援者がJ・M・サンドイッチ伯だったことです。
しかしキャプテン・クックは、上陸から1年後にハワイ島のケアラケクア湾で殺害されてしまいます…。殺害の際にハワイアンが小艇を持ち去ろうとしたことが知られており、舟の釘から生活必需品である釣り針を作るためだったといいます。
ハワイ島で船長を失った船員達は北極海を調査し、日本近海からマカオ、喜望峰を廻って1780年の夏に母国へ帰還したとのことです。
1790年:キラウエア火山が大噴火をする
キラウエア火山は、ハワイ島を代表する火山です。キラウエアとはハワイ語で「吹き出す」「多くまき散らす」という意味を持っています。
1790年に大噴火があったことが知られており、火砕サージが発生して約80名が死亡したとのことです。
ちなみにキラウエア火山は現在も活動しており、ハワイ火山国立公園で様子を観察できます。火口や溶岩洞窟、溶岩台地などを眺められるスポットであり、初めて見たときに人生観が変わったと感激している方も見受けられます。
火山に興味がある方はぜひ訪れてみてはいかがでしょう。
ハワイ王国時代の歴史
ここまでハワイに人々が定住して、外国から開拓されていくまでの歴史をご紹介しました。
その後、ハワイには王国が誕生し、新たな歴史が築かれていきます。ここからはハワイ王国時代の歴史についてご紹介していきます!
1975年:カメハメハ大王1世がハワイ諸島を統一する
1778年にハワイを発見したときの一員であったバンクーバーは、クック船長が亡くなってから再び太平洋探検の命令を受けます。1791年に船長としてイギリスを出発し、喜望峰からオーストラリア、ニュージーランド、タヒチを経て、ハワイを訪れます。
その後、ハワイで親交を深めた人物がカメハメハ1世です。カメハメハ1世は領地の統治方法を習得しただけでなく、イギリス人のジョンヤング等を参謀として、西欧の帆船の航法や大砲の使い方まで会得しました。
1794年にはマウイ島とオアフ島を支配していたカヘキリ王が亡くなり、カメハメハ1世はハワイ諸島統一の意思を固めます。
1795年2月にはマウイとモロカイ、ラナイを獲得。その後は、西欧の船も駆使してオアフ島のワイキキからカハラにかけて、多くのカヌーで上陸しました。4月にはヌウアヌパリで勝利し、ハワイ諸島を統一します。
その後、厳しい戒律を含むカプによる統治が続きました。しかし1819年には、カメハメハ大王の死後に息子のリホリホがカプを廃止します。
なお、カメハメハ大王の像はイオラニ宮殿から道を隔てた正面に威風堂々と建てられています。
1820年:アメリカの宣教師が布教活動を展開
1789年にはアメリカ国籍の船がハワイ諸島に初めて来航しました。そして1820年には、最初のプロテスタント宣教師がアメリカ東海岸のボストンから上陸します。
ハワイ島カイルア・コナで一行を迎えたカメハメハ2世は、宣教者達にハワイでの布教を許可して、ホノルルダウンタウンの土地も与えました。
その後、宣教者達は施設を建築して布教活動を展開し、ハワイの人々に新たな価値観を普及していきました。
なお、宣教師達の伝道本部として使用されていた施設は、現在の「ハワイアン・ミッションハウス史跡史料館」であり、生活スペースや作業所など当時の様子をそのまま見学できます。
1840年:カメハメハ3世がハワイ憲法を公布する
1840年には、カメハメハ3世がハワイ憲法を公布して、立憲君主制が成立します。ハワイアンの人々に選挙権が認められ、西欧的な国家の型ができていきました。
このころのハワイは、英仏の軍艦の船長から領土の受け渡しや、不平等条約を突き付けられるなど、他国からの侵略に翻弄されていました。
国の法的根拠を明確にして他国からの侵略に対応していく必要性が、憲法発布の背景となっていたようです。
1842年:オアフ島でカワイアハオ教会が完成する
キリスト教宣教師がハワイに上陸してから、一行に住居と礼拝の場として簡素な藁葺きの小屋が建てられましたが、家事や台風などで4度も破壊されてしまいます…。
1838年にカメハメハ3世の命によって、当時最も頑強な建築素材だった珊瑚による礼拝堂「カワイアハオ教会」の建設が始まり、1842年に完成します。
カワイアハオ教会はオアフ島初のキリスト教会であり、初礼拝にはカメハメハ3世を含む王族をはじめ、5,000人のハワイアンが出席して行われました。
なお、カワイアハオ教会はワイキキから車で約15分、バスで約30分の場所にあり、すぐ近くにあるカメハメハ大王像とまとめて訪れるのがベストです。
1845年:首都がラハイナからホノルルに変更される
ハワイ州マウイ島にあるラハイナは1820年からハワイ王国の首都として位置づけられていました。ラハイナとは、ハワイ語で「残酷な太陽」という意味を持ち、その名の通りラハイナは、強い日差しが降り注ぐエリアでした。
そんなラハイナは、初めてアメリカの捕鯨船が来港してから船団の拠点となり、異国の船が主導権を握るようになっていきます。
カメハメハ3世は危機感を募らせたのか、1845年には首都をラハイナから商業の中心地であったホノルルに移転します。
1849年:ハワイがアメリカと修好通商条約を締結する
1849年8月には、駐布フランス領事が海軍とともにハワイの占領を試みる事件が勃発しました。
その一方で、民主党ポーク政権下のアメリカはハワイと不平等な条約を締結していた他国とは異なる動きを見せます。ハワイで国際的に有利な地位を得ることを目的として、1849年12月にハワイと対等な政治関係を築く修好通商条約を締結しました。
アメリカの動きによる影響もあってか、イギリスもハワイとの修好通商条約を対等な条文で再締結します。
カメハメハ3世は過去の占領事件などによって英仏に不信感を持っていたほか、親族の婚姻関係でたくさんのアメリカ人と交流していたことから、親米派になっていました。そのような背景から、ハワイとアメリカの関係が他国を凌ぐようになったようです。
1868年:日本から最初の移民「元年者」が来島する
1868年には、約150人の日本人が労働者としてハワイに来島しました。そのころの日本は明治に改元したこともあり、上陸者たちは元年者と呼ばれています。
当時、徳川幕府は駐日ハワイ領事ヴァン・リードの求めに応じて、旅券を発行していました。しかし、明治政府が出航を認めなかったので、元年者たちは無許可の状態で出航したようです。
ハワイの労働環境は厳しく、1870年には元年者たちの42人が帰国しましたが、最終的にハワイで生活し続ける道を選んだ人々もいました。
1871年:日ハワイ修好通商条約が結ばれる
太平洋の島国であったハワイと日本は、いずれも19世紀に西洋諸国によって大きな影響を受け、立件国家への道を進み始めました。
ハワイは日本との条約締結を求め、江戸幕府との間で交渉が行われていましたが、締結には至りませんでした。
しかし、元年者の渡航がきっかけとなって再び交渉が進んでいき、1871年には日ハワイ修好通商条約が結ばれます。
その後、ハワイの国王が訪日したとき、明治政府は国賓待遇として歓迎しました。
日本は深刻な不況が起きたときにハワイ移民を推奨した一方で、ハワイ王国もサトウキビ栽培のために日本人を求めました。日本とハワイ王国はギブアンドテイクの良好な関係を築けたようです。
1873年:初の選挙で国王にルナリロが就任する
カメハメハ5世が後継者を指名せず他界したことから、1873年1月1日に国民投票が行われます。そして1月8日には王国憲法に従って議会による初選挙が実施され、ルナリロが全票を獲得してカラカウアに勝利しました。
しかし、ルナリロは肺結核を患ってしまい、王位についてからわずか1年ほどで亡くなります…。ルナリロの亡骸は、マウナアラの王家の墓地に埋葬され、最終的にカワイアハオ教会に移されました。
ルナリロも後継者を指名せずに亡くなってしまったので、エマ王妃とカラカウアが選挙で戦うことになり、最終的にカラカウアが7代目のハワイ国王に就任します。
1875年:米ハワイ王国互恵条約が結ばれる
アメリカは、1842年にタイラー大統領が太平洋政策(タイラー・ドクトリン)を宣言して以降、対ハワイ政策を推進していきます。
7代目の国王であるカラカウアも、選挙公約の一つであったアメリカとの互恵条約締結の促進に努め、自ら渡米して1876年に条約の締結を成功させました。
ハワイが経済不況の打開を模索していた一方で、米連邦議会もハワイの領土特権を獲得したかったことから、相互に利害関係が一致したようです。
条約を締結した結果、ハワイの砂糖産業は爆発的に拡大していき、砂糖プランテーションの規模拡大は、後にアメリカからのさらなる資金流入をもたらしました。
砂糖工場の増設ばかりでなく、灌漑水路造成や鉄道建設も活発化していきます。
しかし、互恵条約には「アメリカ以外とは同様の条約を結べない」、「精製前の砂糖のみが無税でアメリカに持ち込める」など、米国側に有利な条項が盛り込まれていたようです。
1882年:イオラニ宮殿が建設される
1882年にカラカウアは、ハワイ王朝の栄華を示す象徴「イオラニ宮殿」をホノルルに建設しました。
当時のモダンテクノロジーが駆使されており、宮殿内には水洗トイレや水・湯が出るシャワー、電話、電灯などが備え付けられています。
1階には世界からのゲストを招待した「正餐の間」や、最も栄華を誇った「王座の間」などがあり、2階にはカラカウア王の寝室や執務室、音楽部屋、女王の寝室なども作られました。
現在でも家具や内装の一部が残されており、宮殿内および地下ミュージアムのツアーも実施されています。
1886年:日布渡航条約が締結される
1885年に日本からハワイへの集団移民が開始されます。1894年まで計26回にわたり、約3万人の日本人がハワイに渡航しました。
1886年には日本とハワイ王国の間で、ハワイに労働移民した日本人の人権を守るための条約「日布渡航条約」が締結されます。
日本はハワイ王国に対して、裁判における通訳の準備や、日本医師の雇い入れなどを義務付けました。
なお、日本からハワイ王国に渡航した移民は、日布渡航条約にもとづいていたことから、官約移民と呼ばれています。
1889年:ビショップ博物館が建設される
1884年に、ハワイ王朝のカメハメハ王最後の直系にあたるパウアヒ王妃が、ハワイ王朝から受け継いだコレクションを残して他界してしまいます。
そして1889年に、チャールズ・リード・ビショップが、パウアヒ王妃の遺言に添って「ビショップ博物館」を建設しました。
現在では、太平洋地域の重要な自然と文化を伝承する歴史博物館としての役割を果たしています。ハワイやポリネシア文化を記録した伝統工芸品や史料、写真などが収蔵されており、その数は2,500万点を超えています。
日本人向けのプラネタリウムが開催されている点も見過ごせないポイントです。星をコンパスにしながら海原を渡ったポリネシア人たちの物語を観覧できます。
※2021年3月時点で、プラネタリウムは一時的に中止となっていたので、実施状況については問い合わせが必要です。
ハワイ共和国時代の歴史
カラカウア王の時代のハワイ王国は、砂糖産業によって繁栄をしていきます。しかし、西欧人が多くを占める経済界の力も強まりました。
最終的にハワイ王朝は終焉を迎え、ハワイ共和国時代に突入することになります。
ここからは、ハワイ共和国時代の始まりから解説します!
1894年:暫定政府がハワイ共和国の誕生を宣言する
1887年、カラカウアは王権を制限する改正憲法に署名を強いられ、王の権力を内閣に分散させられてしまいます。
その後、アメリカへの併合を求める親米派の動きが強くなり、王権の維持が困難になっていきました。そして1890年11月には、王国議会閉会の日に王の様態が急変し、アメリカで静養することになります…。
カラカウアは、アメリカの賓客として海軍の軍艦チャールストン号でサンフランシスコに到着しますが、1891年1月20日に客死しました。
王の客死を受け、ハワイ王国第8代目の女王にリリウオカラニが就任します。しかし即位後の政局混迷の中、1893年には親米の反王政派によりリリウオカラニ女王がイオラニ宮殿に幽閉され、暫定政府が樹立されます。
そして1894年にはハワイ共和国が誕生し、ハワイ王朝は終焉を迎えてしまうのです。
なおハワイ共和国は、ハワイ人が自ら樹立した共和国ではなく、白人が他民族の主権を力ずくで奪って誕生した国といわれており、ハワイ人や日本人などの非白人には平等な権利は認められていなかったといいます。
1898年:アメリカによってハワイが併合される
1898年1月にハバナの暴動をきっかけに米西戦争が勃発し、太平洋上のスペイン領土を巻き込んでいきます。
アメリカでは、戦局を展開するための恒久的な補給地が必要だとの世論が深まり、ハワイの持つ軍事拠点としての重要性が地政学的に再認識され、ハワイ併合派の声が大きくなります。
そして同年7月7日、ハワイ共和国はアメリカに併合され、ハワイの主権が正式に移譲されました。
その後、併合時の条件であった真珠湾の軍事基地建設も開始され、基地経済はハワイ最大の産業となっていきます。
また、軍事基地建設だけでなくアメリカ人向けにホノルル地区の観光開発も開始され、同じくハワイ最大の観光産業の礎が築かれていきました。
ハワイ準州時代の歴史
1900年:アメリカ合衆国ハワイ準州となる
1900年4月には、ハワイ領土併合法が公布され、同年6月にハワイ領土政府が設立されます。
ハワイ共和国下の官僚が要職に就任し、元ハワイ共和国大統領であったドールが初代ハワイ準州知事に就任しました。
ハワイはアメリカの準州となり、海軍の太平洋艦隊基地として重要性を強めていきます。
1901年:モアナホテルがオープンする
1890年代後半には、ホノルルとサンフランシスコを結ぶ蒸気船が増便され、ハワイへの訪問者数が増加しましたが、ワイキキのビーチ沿いには宿泊施設がありませんでした。
そこで、サルーン経営で財を成した人物として知られる「W.C.ピーコック」氏が、リゾートホテルの建設を提案。1896年に自ら「モアナホテル・カンパニーLtd.」を設立しました。
当時有名だった建築家「オリバー・G・トラップヘイガン」氏がホテルの設計を担当し、イオラニ宮殿を建設した「ザ・ルーカス・ブラザーズ」も工事を担当しました。1899年9月にホテル建設が始まり、1901年にモアナホテルがオープンします。
木造建築の旧モアナホテル部分は、最終的に国家歴史登録材に登録され、歴史的建造物として保存されました。
1906年:ハワイ出雲大社が創建する
1906年には、日系移民への神道布教を目的として、出雲大社の分院「ハワイ出雲大社」が建設されます。
1941年の日米開戦によって、神職が身柄を拘束されるなどの被害を受けましたが、戦後に社殿が移築・修理されました。現在の所在地はHonolulu, HI 96817となっています。
観光する方のために、参拝の作法もまとめてみます。
日本円ではなくドルで賽銭するのが新鮮ですね!
1907年:ハワイ大学が設立される
1907年にはハワイ大学が設立されます。正式名称は、The University of Hawai‛i System(ハワイ州立大学機構)です。
現在では、下記3つの4年制大学と、7つの2年制大学(コミュニティ・カレッジ)に分かれています。
【4年制大学】
- マノア校
- ヒロ校
- ウェストオアフ校
【2年制大学】
- カピオラニコミュニティカレッジ
- ホノルルコミュニティカレッジ
- リーワードコミュニティカレッジ
- ウィンドワードコミュニティカレッジ
- ハワイコミュニティカレッジ
- カウアイコミュニティカレッジ
- ハワイ大学マウイカレッジ
ハワイの大学は観光スポットとしても人気です。
たとえば、ハワイで最も知名度の高いマノア校は、カフェテリアやシアター、ファーマーズマーケットなど、学生でなくても利用できる施設や催しがたくさんあります。ハワイを訪れたときは、このような形で現地の学生生活をのぞいてみるのも面白いかもしれません。
1921年:ボルケーノ・ゴルフ&カントリークラブがオープンする
1921年には、世界的にも稀少なコース設計で有名な「ボルケーノ・ゴルフ&カントリークラブ」がオープンしました。
キラウエア火山を抱くハワイ火山国立公園内に位置していますが、標高1,200mの高さにあるので、汗はあまりかかないそうです!
美しい高原が広がるカントリークラブであり、冬季には雪をかぶるマウナロア山も眺められます。
ヒロからやや遠いので、空いていることが多いようです。
1924年:アラワイ運河の工事が完了する
ワイキキは農村としての歴史が長いエリアであり、蚊が水田に産卵して増えて大発生する問題を抱えていました。
大量の蚊が熱病を媒介する危険性から、当時の衛生局局長「ルーシャス・ピンカム」氏が、湿地帯から水を取り除く再開発プランを作成。1918年に運河建設の実施が認められ、1921年に着工が始まり、1924年には工事が完了しました。
(厳密には、拡張工事が必要になったため、最終的に完成したのは1928年とのことです。)
ちなみに運河の名前は公募されており、当時のホノルル市長夫人による「Ala Wai(水の道)」に決まりました。
1926年:アロハタワーが完成する
1926年には、アロハタワーがホノルル港に建築され、灯台として使用されるようになります。高さは約55メートルであり、当時のハワイでは最も高い建築物でした。
1920年代半ばから40年代にかけて、アメリカからハワイに定期客船が就航したとき、ホノルル港が表玄関であったことから、アロハタワーはたくさんの旅行者からシンボルとして親しまれました。
現在も建築当時の姿がそのまま残っており、10階には無料で入場できる展望デッキがあります。ホノルル港やダウンタウン、ワイキキ方面の景色、ホノルル港に停泊している豪華客船の姿を楽しめます。
1927年:ロイヤルハワイアンホテルがオープンする
1927年には、かつて王族の休息地だった地に、ロイヤルハワイアンホテルが創業しました。ワイキキで3番目に歴史のある5つ星ホテルとして知られています。
マトソン社所有の新豪華客船「マロロ号」の旅客宿泊施設として建築され、当初4百万ドルが投じられ18か月で完成しました。
400室を備える6階建ての建物は、当時流行していたスパニッシュ・ムーア様式が取り入れられ、映画スター「ルドルフ・ヴァレンティノ」氏の影響を受けているとのことです。
世界中の名だたる国賓やセレブに愛され、太平洋のピンクパレスと呼ばれるようになります。
なお、ホテルでは現在、毎週火曜日・木曜日・金曜日の午後1時から、無料で参加できるガイド付き歴史ツアーが開催されているとのことです。ホテルの外観がピンク色である理由を知りたい方はぜひ参加してみてください。
1927年:ホノルル美術館がオープンする
1927年には、アナ・ライス・クック夫人がホノルル美術館をオープンしました。
アナ・ライス・クック夫人は、1853年にオアフ島で生まれ、ビジネスマンを親に持つチャールズ・クック氏と結婚。夫婦で客間用の陶器や織物などをはじめ、さまざまなアートコレクションを集めます。
その後、ハワイの子供たちのためにユニークなアートギャラリーを作ることを決心し、自宅を取り壊して美術館を建設し始めます。
当初、美術館の永久貯蔵品は約875点ほどでした。しかし、現在では50,000点以上まで増え、世界中のさまざまなアート作品が1日で観覧できるようになっています。
噴水や壁面のタイルアートがきれいな地中海式庭園もあり、インスタグラムのスポットとしても人気です。 現地を訪れたときは写真を撮影してみてはいかがでしょう。
1929年:ホノルル・ハレ(市庁舎)が完成する
1929年には市庁舎としての役割を果たすホノルル・ハレが建設されました。ハレは、ハワイ語で家や建物をあらわしているとのことです。
建築様式はスパニッシュ・コロニアル・リバイバル様式であり、美しい装飾が施されたバルコニーやアーチ、柱などが見られます。クリスマスシーズンには、クリスマスツリーのイルミネーションを楽しむことも!
正面の芝生の上には、2001年9月11日に発生したニューヨークテロ事件の犠牲者のために、「永遠の炎の記念碑」が建立されています。
1941年:日本軍がパールハーバーを奇襲(真珠湾攻撃)する
1941年に日本海軍がハワイの真珠湾軍港「パールハーバー」を奇襲しました。奇襲は成功して停泊中の太平洋艦隊に大打撃を与え、アメリカの戦艦4隻が沈没したほか多数の艦艇、飛行機なども失われます。
日本のだまし討ちとされており、アメリカ議会は全会一致で対日宣戦布告を可決し、太平洋戦争が始まります。
アメリカ大統領であったフランクリン・ローズヴェルトは国民に、「パールハーバーを忘れるな」と呼びかけ、戦争意欲を高めたようです。
わすか2時間の攻撃で2,400人以上を殺害した真珠湾攻撃は、2011年の同時多発テロ事件が起こるまで、最も死者の多いアメリカへの攻撃として知られるようになりました。
1945年:日本がポツダム宣言を受諾して降伏文書に署名する
1945年8月に日本は、ポツダム宣言を受諾し、27日から連合国軍の日本進駐が始まりました。そして9月2日には、東京湾上の米国軍艦ミズーリ号で、降伏文書の調印式が行われます。
重光葵外務大臣と梅津美治郎参謀総長、マッカーサー司令官をはじめとする各国の代表が署名しました。
連合国が降伏文書調印とともに日本政府に手交した最初の指令では、日本の陸海軍に対して「一般命令第一号」を順守させるべしとの内容が示されます。
一般命令第一号では日本軍の戦闘停止と武装解除の手続き、軍事施設、捕虜・抑留者に関する情報提供など、軍事事項の詳細が規定されました。
なおミズーリ号は当時のままの姿でパールハーバーに保管されており、見学することが可能となっています。
1946年:アリューシャン地震でヒロに津波が押し寄せる
1946年4月1日3時28分ころ、モーメントマグニチュード8.1のアリューシャン地震が発生し、ハワイ島のヒロは津波によって壊滅的な被害を受けました。
地震が発生してから5時間後、ヒロに5~10mの津波が押し寄せ、96人の犠牲者が出てしまいます。
当時、通学途中の子どもたちが潮の引いていく様子を伝えていたようですが、エイプリルフールを理由に大人たちは信じなかったといわれています。
アリューシャン地震をきっかけとして、アメリカは太平洋津波警報センターをハワイに設置し、津波は「Tsunami」という国際語として知られるようになりました。
1947年:アメリカ本土とハワイの間で約63,000人が渡航
1927年にハワイでは最初の空港が建設され、海軍司令官「ジョン・ロジャース」氏にちなんで、「ジョン・ロジャース・フィールド」と名付けられました。真珠湾攻撃以降は軍の統制下に入り、海軍航空基地として使用されるようになります。
1946年には軍による統制が解除され、ハワイ準州のもとに返還されました。そして1947年には、アメリカ本土のルール(空港のある都市の名前を空港名にする)に従いホノルル空港に名称が変えられます。
ホノルル空港になった同年、アメリカ本土とハワイの間で、約63,000人の乗客が渡航しました。
1948年には、パン・アメリカン航空が初めてホノルルと東京の間を、給油せず約11時間半でつなぐことに成功。アメリカ国内だけでなく、外国間を結ぶ国際線が増加していきました。
1953年には、日本航空株式会社法にもとづき、20億円の資本金をもって日本航空株式会社が設立されました。翌年には東京~ホノルル~サンフランシスコ線が開設され、本邦企業初の国際線定期輸送が開始されます。
1968年には、コンチネンタル航空がホノルル~沖縄線を就航しました。
1950年:リリハベーカリーがオープンする
1950年には、ハワイの地元で愛され続けているリリハベーカリーがオープンします。
焼きたてのパンや砂糖がけのドーナッツ、バターロール、シナモンブレッドなどを販売しているお店です。
特に有名なのが、チョコレートクリームが詰まったシュークリーム「ココパフ」。ココパフだけで毎日4,800~7,200個も売れるといいます。定番のチョコレートクリーム以外にはグリーンティー風味も!
2014年にはカリヒ地区のニミッツハイウェイ沿いに2号店がオープンし、2019年にはアラモアナセンターに3号店もオープンしました。
ちなみに、リリハベーカリーの本店はほかの店舗と違い、座席は古き良きハワイを感じさせるカウンター席のみとなっています。ノスタルジックな雰囲気を味わいたい方は本店を訪れてみてはいかがでしょう。
ハワイ州時代の歴史
ここまでハワイ準州時代の歴史をお伝えしました。モアナホテルやホノルル美術館のオープン、真珠湾攻撃など、さまざまな出来事を把握していただけたと思います。
ここからは引き続き、ハワイ州が誕生してからの歴史について解説していきます。ハワイ準州時代に引けを取らず、たくさんの出来事が盛りだくさん! ハワイへの知見を深め、魅力をさらに深堀りしていきましょう。
1959年:ハワイ立州法案が可決されハワイ州が誕生する
第二次世界大戦後、ハワイ市民の間ではアメリカの一員としての意識が醸成され、立州化運動が盛んになりました。
ハワイ出身の代議員「ジョセフ・ファーリントン」らの働きかけによって、1946年に連邦議会がハワイの州昇格について検討を始めます。翌年には、ハワイ立州法案が連邦議会に提出されましたが、上院で廃案となりました。
しかしその後、立州化が共和党や民主党のマニフェストに組み込まれ、1950年代には再び立州化運動が盛んになります。
そして1959年3月、連邦上院では「賛成76・反対15」、連邦下院では「賛成323・反対89」で可決され、議会でハワイの州昇格が承認されました。
同年8月21日には、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領によって宣言書調印が行われ、ハワイは正式にアメリカにおける50番目の州となります。
1959年:アラモアナセンターがオープンする
1959年には、ハワイ最大級のショッピングセンター「アラモアナセンター」もオープンしました。
アラモアナ公園の目の前に立っており、ワイキキから市バスやトロリーで10分ほどの距離に位置しています。
350以上のショップで成り立っていて、常に新しい店舗がオープンして進化を続けているスポットです。日本未上陸のアメリカンブランドや、一流ブランドのブティック、本格的なダイニングを楽しめる人気レストランなどと出会えます。
センターステージでは、常に無料でエンターテイメントが公開され、フラショーを楽しむことも!
1日では回り切れない広さなので、何度も通って買い物やイベントを楽しんでみてはいかがでしょう。
1960年:チリ地震で再び津波がヒロを襲う
1960年5月22日午後15時11分、チリでマグニチュード9.5の巨大地震が発生し、またしても津波がヒロを襲います。
警報システムを変更したばかりであったことと、ラジオ放送で誤った津波襲来時間を放送したことなどの経緯があり、情報伝達が不十分でした。
深夜の津波襲来によって61名が犠牲となり、1946年に甚大な被害を受けた場所が再び壊滅してしまいます。
その後、ヒロには津波を風化させないために、パシフィック・ツナミ・ミュージアムが建設されました。館内には津波の被害が写真やパネルで紹介され、災害が発生する以前・以後でヒロの様子がわかるようになっています。
1962年:アリゾナ記念館が設立される
1962年には、真珠湾攻撃を受けて沈没した戦艦アリゾナの記憶を残すために、アリゾナ記念館が設立されました。
フォード島の東側で沈没したアリゾナが約12mの海中で静態保存されており、館内では沈められた戦艦の様子や、当時を伝える写真・遺品を観覧できます。戦艦から流れる重油は、「アリゾナの涙」や「黒い涙」と呼ばれているようです。
昔は真珠湾攻撃に関する展示がアメリカ側の視点で作られていましたが、現在は日本側の状況や元日本兵の証言まで紹介されるようになりました。
教科書には載っていない真珠湾の歴史を知りたい方はぜひ訪れてみてください。
1963年:ポリネシア・カルチャー・センターが設立される
1963年には、ポリネシア文化の保全を目的とした非営利団体「ポリネシア・カルチャー・センター」が設立されました。
オアフ島のノースショアにある町ライエに位置しており、ワイキキから約70分の距離にあります。
センターでは、6つのポリネシアの村があり、各エリアでショーやアクティビティを楽しめます。代表的なのが、ハワイ唯一の水上カヌーショー「HUKI」です。ポリネシアの神話や歴史などについて、歌・踊り・衣装などで表現しています。
そのほか、古代の戦士が自分の体に掘ったタトゥーをペイントできる「タトゥー体験」や、ハイビスカスの乾燥した木で火を起こす「火起こし体験」などを楽しむことも可能です。
異国の文化を心行くまで体験したい方は、ぜひポリネシア・カルチャー・センターを訪れてみてください!
1963年:国際興業がハワイでホテル業に進出
1963年には、国際興業がハワイでホテル業に進出し、ホノルル支店を開設しました。
プリンセスカイウラニホテルやサーフライダーホテル、モアナホテルなどを買収するなど、日本企業による投機ラッシュが始まります。
なお、すでにご紹介したピンクパレスの愛称を持つロイヤルハワイアンホテルも、国際興業に買収されています。
およそ50以上の日本企業がハワイの不動産や企業を買収し、ゴルフ場の開発やハワイ支店の開設に乗り出しました。
日本企業によるハワイの進出は、91年のバブル崩壊まで続いたといいます。
1964年:シーライフパークハワイが設立される
1964年にはシーライフパークハワイが設立されます。シーライフパークハワイは、ハワイの海洋生物に対する研究や保護活動を行っているマリンパークです。ハワイのオアフ島南東部のマカプウ岬に位置しており、ワイキキから車で30分ほどの距離になっています。
ハワイ唯一のマリンパークであり、イルカやウミガメと触れ合えるアクティビティや、アシカのショーを楽しめます。
たとえば、ドルフィン・エンカウンターというプログラムでは、実際に水中に入ってイルカに餌付け・握手することも!3歳から楽しめるプログラムなので、小さなお子さんの思い出作りにもピッタリです。
2022年8月22日からパーク内の支払いはすべてキャッシュレスとなり、クレジットカードあるいはApple Pay、Google Payに限られています。現金しか持っていない場合は、パーク内のプリペイドカード発行機を利用しましょう!
1967年:観光客の受け入れ人数が100万人を超える
ハワイは過去に、パイナップルが大量生産され一大産業として発展した歴史があり、世界一の産地になったこともあります。
1967年には、そんなパイナップルの生産収入を観光産業の収入が超え、観光客の受け入れ人数は100万人を達成しました。
その後の観光客の人数は、1972年に200万人台となり、観光産業はハワイの最大産業となります。
そして、観光客の人数はさらに増え続け、1988年に600万人台となり、長年にわたって目覚ましく増加していきました。1997年には日本人観光客が約220万人を超え、ピークを迎えています。
1968年:カネオヘに平等院テンプルが建設される
1968年には、ハワイへの日本人移民100周年を記念して、オアフ島のカネオヘに平等院テンプルが建設されました。
名前からもわかる通り、日本の宇治市にある平等院鳳凰堂がモチーフとなった仏教施設であり、コオラウ山脈の麓にある民営公園墓地「バレー・オブ・ザ・テンプルズ記念公園」の中に立地しています。
お寺の周囲には日本庭園と大きな池、竹林などがあり、錦鯉が泳ぐ姿やブラックスワンが横切る姿、孔雀が羽根を広げる姿などが見られます。
池の横には鐘つき堂と大きな梵鐘があり、鐘をつくカップルが幸せになるとの言い伝えも! カップルでハワイを訪れるときは、ぜひ二人仲良く立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
1969年:マウイ島サトウキビ列車が運行開始
ハワイでは、サトウキビ農業のために電車が建設され、人や物質が運ばれるようになった歴史があります。
1969年には、マウイ島でラハイナからカアナパリまで往復するサトウキビ列車で観光ツアーがスタートしました。
西マウイで最も人気のある観光アトラクションとして注目を集め、これまでの乗客数は500万人を超えているとのことです。ハワイの光景を客車から眺められるほか、途中で蒸気機関の水が補給される光景も眺められました。
しかし、サトウキビ列車の観光アクティビティは、老朽化が原因で最終的に終了しています…。
1970年:ジャンボジェットの登場によって日本のパッケージツアーが本格化する
ハワイ準州がアメリカの50番目の州となったことで、アメリカではハワイの知名度が高まり、1965年にはホノルル国際空港の利用者が年300万人に迫っていました。
そして1969年にはジャンボジェット機が登場し、1970年3月1日にボーイング747型機がホノルル国際空港に到着します。
ボーイング747型機の搭乗人数は397名から490名です。搭乗人数が155名から251名だった以前の機体より多くの人々を輸送できるようになりました。
ジャンボジェットは東京とホノルル間を就航し、日本のパッケージツアーが本格化して日本人観光客も増加していきます。
1973年:第一回ホノルルマラソンが開催される
日本の市民ランナーから「一度は走ってみたい憧れの大会」として挙げられるホノルルマラソンは、オアフ島ホノルル市で毎月12月の第2日曜日に開催されています。
第1回目の大会は、1973年12月に心臓病の医師「ドクターJ.スキャッフ」氏の提唱によって開催され、162名のランナーが参加しました。
「長距離をゆっくり走ることは心臓病の予防・リハビリに効果がある」という観点から開催されたようです。
記録によると日本人は、第4回目の大会では1名参加しています。その後TBSテレビでホノルルマラソンの特別番組が放送され始め、リゾート地で走る素晴らしさが認知されるようになり、日本人の参加者も急速に増えていきました。
制限時間がないので、初心者でもマラソンの魅力をじっくり味わいやすくなっています! HISからツアーが提供されているので、気になった方は申し込みを検討してみてはいかがでしょう。
1974年:ハワイ州知事に日系人が初めて当選する
ハワイ州初代知事はニューヨーク州生まれのウィリアム・フランシス・クイン氏、第二代目知事はモンタナ州生まれのジョン・アンソニー・バーンズが就任しました。
そして1974年、第三代目知事には福岡県出身の日本人移民の血を引くジョージ・リョウイチ・アリヨシ氏が就任し、日系人として初当選を果たします。
ジョージ・リョウイチ・アリヨシ氏は、急激に増加する人口、警察官・教師・公務員によるストライキへの対応に迫られました。
景気後退を経験しながら、観光業の成長を支えつつ、水産物の養殖やエネルギーの研究、史跡の保護などに積極的な支援をしたとのことです。
1982年:アラモアナセンターがダイエーの子会社に買収される
1982年には、ダイエーの子会社であるDEインベストメント社がアラモアナセンターを隣接するビルとともに約30億3,000万ドルで買収しました。
そして1995年には、ダイエーが単独のオーナーとなり、日本企業に所有権が移ります。
1999年にはシカゴを拠点とするGGP社がダイエーから所有権を獲得。売買価格は約8億ドルだったとのことです。
さらにその後、世界最大級の商業不動産会社「ブルックフィールド・プロパティ・パートナーズ」がアラモアナセンターを所有するGGP社を92.5億で買収します。
このようにアラモアナセンターの所有権は、さまざまな企業の間で取引されました。
1991年:日本のバブル崩壊で投資が激減し、湾岸戦争で観光業も衰退する
1991年には日本でバブル崩壊が発生し、日本資本の投資が激減していきます…。バブル期に取得したホテルは安値で売却されていきました。
ただ、国際興業や三井不動産、ニュー・オータニなど、ハワイにとどまる企業もあったようです。
また、同年にはイラクによるクウェート侵攻で湾岸戦争も発生しました。アメリカ軍を含む多国籍軍がイラクを空爆します。
日本では海外旅行を控える人々が増え、ハワイへの旅行者が激減しました。ワイキキからは観光客がいなくなり、観光産業も落ち込みます。
1994年:アロハタワーマーケットプレイスがオープンする
ホノルルのランドマークであるアロハタワーは一時期、船旅の衰退によって訪れる観光客がまばらになってしまいます。
しかし1994年には、アロハタワーを中心とした大規模な再開発が完了し、一大ショッピングセンターのアロハタワーマーケットプレイスがオープン。たくさんの人々が集い、華やかさを取り戻しました。
観光客向けのショップが多く立ち並び、ウクレレやサーフギア・ウェア、アイランドギフトなど、ハワイテイストのアイテムがズラリと販売されるようになります。
ただ、現在はショッピンセンターとしての役割が薄れ、地域住民向けのイベントスペースや学校施設などが利用されているようです。
テナント数が減少し、活気が薄れているという声もあり、観光目的で行くときには注意が必要かもしれません。
1995年:第1回ホノルルフェスティバルが開催される
1995年3月には、日本の祭りをハワイに紹介するコンセプトで、第1回ホノルルフェスティバルが開催されました。
現在は、ホノルルフェスティバル財団が毎年3月に開催するハワイ最大級の文化交流イベントとして知られています。ホノルル市やハワイ州政府観光局、JTB、JAL、地元企業などが協力して運営しています。
ホノルルフェスティバルのテーマは「愛と信頼」であり、目的は「異民族の文化交流によって平和的な生き方を模索する」ことです。きっと参加すれば世界平和に対する考えを深められるに違いありません。
なお、2020年から2022年までは新型コロナウイルスの影響により3年連続で中止となっていましたが、2023年3月には第27回のフェスティバルが開催されることになりました!
これからハワイを訪れる方は、ぜひ参加してみてはいかがでしょう。
2002年:ハワイ州立美術館がオープンする
2002年には、ハワイに生きる人々の歩みを形にするべく、ハワイ州立美術館(Hawaii State Art Museum)がホノルルのダウンタウンで開館されます。
頭文字からHiSAM(ハイサム)と呼ばれており、歴史的建造物「ナンバーワン・キャピトル・ディストリクト・ビルディング」の1階・2階にあります。
建築様式はスパニッシュ・ミッション・スタイルであり、白い壁とスペイン風の瓦が特徴です。
運営元はハワイ州文化芸術財団であり、ハワイのアーティストによる絵画や彫刻、陶芸などの芸術作品を展示しています。
入館料は無料なので、気軽に立ち寄ってみてはいかがでしょう。
2003年:SARSの影響が深刻化してハワイ旅行者が激減する
2002年11月16日には、感染症SARSが中国南部広東省で発生し、北半球のインド以東のアジア・カナダを中心として、32の地域・国々へと拡大しました。
中国では初期段階で5人の死亡例が確認され、2003年3月初めには旅行者を通して、ベトナムのハノイ市で院内感染も確認されます。そして3月12日にWHOは、全世界に対して異型肺炎の流行に関する注意喚起を発しました。
イラク戦争で海外旅行者が減少する中、SARSの影響が深刻化したことから、ハワイへの渡航者数がさらに激減します…。2003年は、ハワイの観光業にとって受難の年になりました。
2008年:ラハイナゲートウェイが誕生する
2008年には、ラハイナの北側に新しいショッピングスポット「ラハイナゲートウェイ(LAHAINA GATEWAY)」が誕生します。
20店舗以上のレストランやショップなどが入っており、地元マウイ産の食材を取り扱っているオーガニックスーパーで買い物することも!
そのほか近年になって、DIYショップ「エース・ハードウェア」のラハイナ店もグランドオープンしたようです。
また、ラハイナゲートウェイの向かい側にはラハイナキャナリーモールもあり、日用品の調達に便利なドラッグストア「ロングス・ドラッグス」を利用可能です。
ラハイナゲートウェイで食事や買物をして、ハワイの日常生活を楽しんでみてはいかがでしょう。
2009年:電子渡航認証システムESTA(エスタ)が義務化される
2009年1月12日からESTA(エスタ)が米国国土安全保障省(DHS)により義務化されます。
ESTAはElectronic System for Travel Authorizationの略称であり、短期のアメリカ渡航に必要な電子渡航認証システムです。一般的なハワイ旅行であればビザの取得は不要ですが、渡航前には必ずESTAで申請しなければなりません。
年齢を問わず申請が必須であり、少なくとも渡航3日前までに手続きをして、渡航認証許可を取得するように推奨されています。
なお申請時には1人あたり21米ドルの支払いも必要です。認証を取得しないと、航空機への搭乗や米国への入国を拒否されるので、注意してください。
ESTAで申請するときの流れ
ご参考としてESTAの申請手順もまとめさせていただきます!
申請ページの案内に従って必要な情報を入力しましょう。「ESTAお申込みに関する同意事項」も確認して申請します。
入力が完了したら支払ページに遷移します。決済で使うクレジットカードを選択して支払手続き進めましょう。
登録したメールアドレスにESTA申請の結果が送信されます。米国CBPの公式サイトで渡航認証許可がおりると、渡米できるようになります。
渡航認証許可が通知されると申請が完了します。メールに記載された認証情報は手帳などに記録しておきましょう。なお、申請状況は専用ページで確認可能です。
2009年:ハワイ出身のバラク・オバマ氏が第44代米国大統領に就任する
2009年には、ハワイ州ホノルル生まれのバラク・オバマ氏が第44代米国大統領に就任します。
同年10月9日にはノルウェーのノーベル賞委員会が、2009年のノーベル平和賞をバラク・オバマ氏に授与することも発表しました。核兵器なき世界の実現に向けた構想と努力が高く評価されたようです。大統領就任から9か月で偉大な功績を残しているのは驚きですね!
なお、授賞の決定を受けたバラク・オバマ氏は、ホワイトハウスで受諾声明を発表。核廃絶の取り組みは「1人の指導者や1か国では達成できない」ことを述べ、世界各国に協力を求めました。その後、2012年には再選も果たしています。
2011年:ハワイ各地で震災の義援金活動が活発化する
2011年3月11日14時46分ごろ、マグニチュード9.0の東日本大震災が日本で発生しました。日本国内観測史上最大規模であり、アメリカ地質調査所によると、1900年以降において世界で4番目の規模とのことです。
ハワイ各地では、震災の被害に見舞われた日本に対して、義援金活動が活発化していきます。
大規模なチャリティー活動として挙げられるのが、アロハ・フォー・ジャパン(ALOHA FOR JAPAN)です。ハワイ州が、ハワイの主要銀行や企業、団体などとともに、東日本大震災救済を目的に立ち上げました。
震災から2か月後には、アロハ・フォー・ジャパンによる募金活動と、大きなチャリティイベントが中心となって作られた義援金の総額が、4億9千万円を突破します。
義援金は、アメリカ赤十字社ハワイ支部やハワイ日米協会を通じて、日本に送付されました。
2016年:インターナショナルマーケットプレイスがリニューアルオープンする
1957年にオープンしたワイキキのランドマーク的存在のショッピングモール「インターナショナルマーケットプレイス」は、メインストリートのカラカウア通り中心にあり、ハワイの歴史を感じながらグルメやショッピングを楽しめるスポットです。
センター内のクイーンズコードではさまざまなイベントやショーが開催され、ハワイの魅力が楽しめるエリアとして知られていました。
そんなインターナショナルマーケットプレイスは2016年に、大規模な改装によって華麗なリニューアルを果たします。
樹齢160年以上の大きな木、バニヤンツリーがモール内中央にそのまま残され、水のカーテンや小川、ハワイの固有植物が効果的に配置されました。
館内には、ワイキキとインターナショナルマーケットプレイスの歴史を学べるプレートが所々に設置されており、すべての質問に回答すると特典が進呈されます! 現地を訪れたときはぜひ質問に回答してみてはいかがでしょう。
2017年:ホノルル国際空港の名称がダニエル・K・イノウエ国際空港に変更される
2017年には、ホノルル国際空港の名称がダニエル・K・イノウエ国際空港に変更されます。ハワイで生まれたダニエル・K・イノウエ元上院議員の功績をたたえるためです。
ダニエル・K・イノウエ元上院議員は、ハワイ大とジョージ・ワシントン大で学び、第二次世界大戦では米陸軍に入隊します。
ドイツの強固な防衛線ゴシックラインで勇気を持って先頭に立ち、銃弾を浴びながらも敵陣地を殲滅しました。欧州戦線で戦い生き残った日系米国兵士として知られています。
1962年に米上院議員に選出され、新しい航空交通管制施設を建設したり、滑走路と誘導路を改善したりするなどして、空港の発展に貢献しました。
2012年に死去してしまいますが、ハワイ州だけでなくアメリカにとって戦後における優秀なリーダーであり、葬儀のときにはオバマ前大統領からも頌辞が手向けられています。
2020年:新型コロナウイルスの感染拡大を防止するために不要不急の外出禁止令が発令される
2020年3月23日、ハワイ州のイゲ知事は記者会見を開き、新型コロナウイルスの感染拡大を防止するため、州民に対して3月25日~4月30日まで不要不急の外出を控えるようにアナウンスしました。
健康維持のために必要な運動としてサーフィンやランニング、動物の散歩などは認められたようです。その一方で日本人観光客は、原則として滞在するホテルで待機を求められ、観光が制限されました。
2021年8月には住民の6割以上がワクチン接種を完了しましたが、さらに新種株が猛威を振るい感染が広がります。
ホノルル市は8月25日に、オアフ島内にあるレストランや美術館などを利用するとき、ワクチンの接種証明書あるいは陰性証明書の提示を義務付ける「セーフ・アクセス・オアフ・プログラム」を2021年9月13日から実施すると発表。このルールは2022年3月6日の廃止まで約半年間つづきました。
日本でも、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、入国・帰国に関する対応を迫られています。
たとえば日本政府デジタル庁は、2022年11月1日から新型コロナウイルス陰性証明を登録する権益「MySOS」を統合した入国手続きオンラインサービス「VJW(Visit Japan Web)」をバージョンアップすると発表しました。
今後も、新型コロナウイルスの感染拡大の状況において、ハワイと日本で観光のルールが随時変化することが予想されます。ハワイと日本の動向をチェックして観光の計画を立てましょう。
まとめ
今回は、ハワイ諸島が形成されてから現代に至るまで、ハワイの歴史について解説しました。
ハワイ諸島は、ホットスポットから発生したマグマによって誕生した島が、プレートによって北西方向に移動することで形成されていきました。
初めて定住したのはポリネシア系住民といわれており、次第にキャプテン・クックのような探検家が訪れるなど、ヨーロッパによる開拓が始まっていきます。
複数に分かれる島々でしたが、カメハメハ大王によって統一され、ハワイ王国が誕生します。その後、ハワイ王国は、欧米諸国や日本とも条約を結んでいき、国交を築いていきました。特にアメリカは、他国よりもハワイと強固な政府関係を築きます。
ハワイ王国第8代目の女王にリリウオカラニが就任したあと、親米の反王政派によって暫定政府が樹立され、最終的にハワイ共和国が誕生し、ハワイ王朝は終焉を迎えます。
その後は米西戦争の勃発を機に、アメリカがハワイの持つ軍事拠点としての重要性を再認識し、ハワイ併合派の声が大きくなっていきました。最終的にハワイ共和国は、アメリカに併合され、真珠湾基地の建設やホノルル地区の開発も始まります。
ハワイがアメリカの準州になってからは、モアナホテルやハワイ出雲大社、ハワイ大学など、さまざまな施設や建物が建設されました。
その一方で、日本海軍がハワイの真珠湾軍港を奇襲した事件や、アリューシャン地震によりヒロが津波で壊滅する事件など、悲しい出来事も起きました。
アメリカでハワイ州が誕生してからは、シーライフパークハワイやポリネシア・カルチャー・センターなど、異文化や海洋生物を親しめるアトラクションスポットも登場し、ますます観光地としての魅力が高まっていきます。
ホノルルフェスティバルのように、日本とハワイの友好を深めるためのイベントも、現在にわたって開催されるようになりました。
このようにハワイの歴史はとても長く、今回紹介しきれなかった魅力もたくさんあります。時間を許す限りハワイの歴史を学び、観光旅行の楽しみを広げてみてくださいね!